〜完成させない暮らしが、第二のふるさとになった〜
今年も、わが家でクリスマスパーティをしました。
写真を見ると、子どもたちが歓声を上げて笑っている様子が写っています。
でも、最初からこんな風景があったわけではありません。
ここに至るまでの道のりがあったのです。・・・









30年続けてきた中で、子どもが主役になった22年
結婚してから、わが家では30年近く、
クリスマスに人を招く暮らしを続けてきました。
その中で、子どもたちが主役になったのは、
娘が生まれて22年間です。

子どもが小さい頃は、正直、余裕なんてまったくありませんでした。
準備は思うように進まないし、
「今年はやめておこうかな」と思った年も何度もあります。

それでも、完璧じゃなくていいから、できる形で続けてきました。

「第二のふるさと」と言ってもらえる理由
来てくれた子どもたちが、大人になった今でも
「片山の家は第二のふるさと!」
と言ってくれるます。
でもそれは、
私が何か特別なことをしてきたからではありません。
私がずっと大切にしてきたのは、
最初から完成させないことでした。
料理は「作るもの」ではなく「一緒に楽しむもの」
料理も、最初から全部は仕上げません。
ハンバーグやチキンライスは下ごしらえまで。
ピザは生地だけ作っておいて、
あとは伸ばしたり、盛り付けたり、飾ったり。

上手にできなくてもいい。
形がいびつでもいい。
失敗しても、笑えたらそれでいい。

料理は「きれいに作るもの」ではなく、
一緒に関わって楽しむもの だと思っています。
みんなで作ったから、帰ってきたくなる
私が一番大切にしてきたのは、
仲間外れをつくらないこと。
みんなが関われること。
そして、みんなが「楽しい」と感じられることです。
全部用意された場所ではなく、
自分の手で関わった場所。
少し失敗した思い出も、
一緒に笑った記憶も、
すべてがその場に残っているからこそ、
「また帰ってきたい」と思ってもらえたのだと思います。
それが、
第二のふるさとと言ってもらえた理由なのかもしれません。
人の出入りがある家は、元気になる
今回、改めて感じたことがあります。
人の出入りがある家は、朽ちにくい ということです。
人が集い、声がして、動きがあると、
空気が動き、家が生きているように感じます。
反対に、人の気配がなくなった家は、
驚くほど早く朽ちていきます。
家は、
人が使い、関わり、行き交うことで、
力を保っていくのだと思います。
大変だからやらない、ではなく
以前は、
「大変だからやめておこう」
そう思うこともありました。
でも今は、
大変なときこそ、少し動かす
そんな感覚に変わっています。
完璧にやる必要はありません。
たくさん人を呼ばなくてもいい。
ほんの少し人を迎える。
ほんの少し空気を動かす。
それだけで、
家も、自分も、また元気を取り戻していく。
そんな気がしています。
大学生最後の娘のクリスマス
今回は、マキが大学4年生ということもあり、
参加費3,000円でした。
「え?参加費を取るの?」
と思われるかもしれませんが、
これにはちゃんと理由があります。
・参加費がないと、
・“何を持っていけばいいか”と悩む
実際、
「3,000円って、すごくホッとします」
「むしろ払わせてください」
そんな声をいただいたそうです。
お金の話は難しいですが、
決めてあげることが、相手への優しさになることもあると、
長年の経験で感じています。
クリスマスは、暮らしの延長線
クリスマスは、
特別なイベントのようでいて、
実は 日々の暮らしの延長線上 にあります。
人を迎えること。
一緒に作ること。
笑い合うこと。
その積み重ねが、
家族の記憶になり、
子どもたちの土台になっていく。
私はそう感じています。
今まさに子育て中のママへ
子育て中は、
毎日が精一杯で、
「こんなことに意味があるのかな」
と思うことも多いと思います。
でも、あとから写真を見返したとき、
きっと気づきます。
あの時のバタバタも、
思うようにできなかった自分も、
全部、ちゃんと 暮らしの記憶 になっていることに。
完璧じゃなくていい。
完成させなくていい。
できる年に、できる形で。
それが、必ずいつか子どもたちの宝物になります。
これからもずっと、あなたの暮らしを応援しています。

